ひめゆりの心 八重山の思い -ヤイマのウムイ-
ひめゆりの心 八重山の思い -ヤイマのウムイ-
運費: ¥ 198
今年カジマヤーを迎えた元教師・川平カツが、九〇余年の生涯をふり返る!
ひめゆり学徒隊として戦禍を生きのびた体験、戦後、38年間つとめた11の勤務校の思い出、退職後に八重山各地の小・中学校でおこなった平和講話の様子など、ふるさと八重山への思いがつづられています。
●目次●
まえがきに代えて………………………1
Ⅰ カツの生い立ち
両親のこと13/カツの名前14/石垣島へ15/「茶道」というものを知る17/辻野家の健康法19/最高のおやつ21/足をきたえる23/お世話になった井上商店のおばさん24
Ⅱ 希望に満ちた師範入学
新しい先生との出会い29/高等科一年女子組31/明かりのない時代の勉強32/待望の師範学校へ合格 34/寄宿舎の様子35/師範学校での生活37/戦争がだんだん近づいてきた38/帰校命令の知らせ 39/ようやく那覇に着く41/那覇「十・十空襲」42/初めて学校に被害が44
Ⅲ 聞いてください、命知らずの戦いの話を
上覇して初めての外出49/学校を離れて、別の壕へ51/南風原の陸軍病院へ54/本科のお姉さんたちの卒業式56/下級生は壕掘り作業へ56/各壕へ分散配置される58/〈ロの三号壕〉の様子59/食料調達へ63/飯上げ64/包帯交換64/首里からの民間人68/師範生の第一の犠牲者69/三報患者の埋葬70/嵩原芳お姉さんの死71/壕内での生活73/南部への移動75/同級の大城ノブさんの死79/島尻の壕へ80/敵の偵察機が現れる81/糸数用武先生との出会いと別れ83/敵の大攻撃、避難民の群れ 84/大田壕に着く86/解散命令89/いよいよ壕を出る91/八重山の先輩と一緒に逃げる92/砲弾の雨の中を逃げまわる94/命の綱の水筒の水96/犠牲者の多かった場所97/敵の軍艦から日本語の放送が流れてきた!105/捕虜となる107/伊良波の捕虜収容所109/一日じゅう目的地も知らされず飲食もなし112/捕虜としての登録をする114/仲吉のおじさん・おばさんに再会118/八重山出身の銘苅秀先生に会う120/お姉さんたちとの別れ122/中川での生活123/東白金廣一おじさんとの再会126 /知念での療養生活128
Ⅳ 八重山に帰る
ようやく石垣へ135/波照間島へ138/戦後の教員不足142/沖縄文教学校に入学143/ついに教員となる144
Ⅴ 勤務校の思い出
1 石垣初等学校…………………………………147
2 登野城小学校…………………………………152
3 石垣中学校……………………………………154
4 石垣小学校……………………………………159
5 黒島小中学校…………………………………163
6 平真小学校……………………………………169
7 石垣小学校……………………………………177
8 白保小学校……………………………………178
9 登野城小学校…………………………………184
10 川平小中学校…………………………………186
11 平久保小学校…………………………………197
Ⅵ 平和講話(学校訪問)……………………201
(1)石垣市立 登野城小学校
(2)石垣市立 八島小学校
(3)豊見城市立 長嶺小学校
(4)石垣市立 八島小学校
(5)石垣市立 明石小学校
(6)石垣市立 登野城小学校
(7)石垣市立 平真小学校
(8)石垣市立 新川小学校+あらかわこども園
(9)カトリック学園 海星小学校
(10)石垣市立 平真小学校
(11)石垣市立 まきら幼稚園
(12)大阪にて
(13)石垣市立 まきら幼稚園
(14)石垣市立 白保中学校
(15)石垣市立 まきら幼稚園
(16)沖縄県立 八重山特別支援学校
(17)社会福祉法人石垣福祉会 やしの実保育園
(18)与那国町立 与那国中学校
(19)石垣市立 登野城小学校
(20)石垣市立 宮良小学校
(21)石垣市立 石垣中学校
(22)与那国町立 比川小学校
(23)石垣市立 平真小学校
おわりに…………………………………………214
[付記] 母について
家中に母の笑い声が響きわたる……………………… 川平 哲 (長男)……………225
何事にも前向きな母…………………………………… 大浜 啓子(次女)……………228
母のいさぎよさ………………………………………… 慶田盛みき子(長女)…………230
川平カツ(&永賢)略年譜 222
写真出典・提供 224
引用・参考文献一覧 236
編集後記(川平いつ子) 238
●著者
川平 カツ(カビラ カツ)
1928年(昭和3)、石垣市に生まれる。
1943年、沖縄県師範学校女子部 予科入学。1945年3月、南風原の陸軍病院へ看護要員として動員され、惨状を目の当たりにする。
同年6月18日の解散命令により戦場をさまよい、捕虜となって収容所生活を送る。1946年6月、1年9カ月ぶりに帰郷。翌年4月から石垣市の教壇に立ち、38年間勤務。退職後に念願の茶道教室を開く。