歌が生まれる時

#10 覚えたての夜

#あけもどろの海  #池原興一  #石垣篤  #覚えたての夜  text: osamu shimajiri 
#10 覚えたての夜

 石垣島におけるフォークシンガーの先駆け的存在、池原興一さんの代表曲である。夕暮れから夜にかけて動き出す頃、なじみの店へ向かう道すがら、今宵のドラマを想像しながら、いつも脳裏で口ずさんでいた。2023年に他界した興一さんに、生前、誕生年を尋ねたことがある。「30代の頃」と、寡黙に答えてくれた。

  作詞は石垣篤。篤さんもすでに旅立ってしまった。彼は、東京から戻った25歳のときに劇団「蜃気楼館」を結成。1981年から1985年までの5年間に、「怪盗ブリックス」など4本の芝居を上演した。旧知の仲である今村光男さん(ジャズバー「すけあくろ」オーナー)によれば、「覚えたての夜」は、篤さんが興一さんに曲づくりを働きかけて生まれたものだという。

 1984年に上演された「水の春」の劇中歌には、「あけもどろの海」(作詞・石垣篤、作曲・日出克)がある。篤さんは「覚えたての夜」を、いつか上演されるであろう新作の劇中歌としてイメージしていたのかもしれない。

  この歌は「どこからきたの~」というフレーズから始まる。しかしこの問いかけは他者に向けられたものではなく、自分の来歴へと向いている。かつての恋愛の残り火があり、風景と溶け合っている。

  10代の頃、篤さんはアングラ劇に、興一さんはフォークソングに傾倒し、それぞれ好きなことを手放さず、ピュアに生きたいように生きた。「少年族」とでも呼びたくなるような二人の個性が交感し合い、興一さんの力強いボーカルと、独自の比喩を用いた篤さんの繊細な描写力が調和し、心に響く一曲となった。

 




Words and Music by

池原興一/いけはらこういち
石垣市大川出身。フォークシンガー。吉田拓郎、井上陽水、西岡恭三、大塚まさじ、下田逸郎らに影響を受けながら40年余り地元で音楽活動を続けた。1956―2023年(享年67)

石垣篤/いしがきあつし
石垣市登野城出身。唐十郎の紅テント「状況劇場」を見て衝撃を受け、劇作家、演出家として地元で活動した。1950―1999年(享年49)

PROFILE

文/島尻修

  • #16 幸せ

    #16 幸せ

    この歌は2005年、沖縄市で開催された第7回コザ音楽祭(主催・沖縄ロック協会)に、4人編成のバンド「チョコプレ」で出場し、見事グランプリに輝いた受賞曲である。

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  • #15 軽トラックかりて

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     小浜島のシュガーロード。両側にサトウキビ畑が広がるまっすぐに伸びた坂道で、この道を走行する軽トラックが2003年に発表された楽曲『軽トラックかりて』の源泉になっている。 ある時「ポっという感じだった」と、曲が産声を上げた瞬間を振り返る。歩きながらハミングするような、自然の流れで生まれたという。

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  • #12 HELLO MAMA

    #12 HELLO MAMA

    4年前の春まだ浅き頃、池田さんの母・信子さんはがんのため78歳で亡くなった。池田さんは「自分がアーティストとして歌い続ける以上、母をテーマにした歌を作りたい」と強い決意を抱いた。「メロディーはすぐ降りてきた」。しかし歌詞がなかなか浮かんで来なかった。母親への愛慕が流れ続ける間、川面の泡のように浮かんでは消え、消えては浮かぶ感覚の中で、言葉が形を成したのは、メロディーが生まれてから4年後だった。数多い思い出のなか、母親が口にしていた「今度生まれて来る時はパーマ屋になりたい」という言葉をそのまま盛り込んだ。

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  • #11 星になったこどもたち

    #11 星になったこどもたち

    波照間島の中心部、西表島を望む小高い丘に「学童慰霊碑」が建っている。この碑は太平洋戦争末期、西表島南風見へ強制疎開させられ、マラリアで命を落とした波照間小の児童66人の霊を慰めるために建立された(1984年の創立90周年事業)。

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