歌が生まれる時

#12 HELLO MAMA

text: osamu shimajiri 
#12 HELLO MAMA

 4年前の春まだ浅き頃、池田さんの母・信子さんはがんのため78歳で亡くなった。池田さんは「自分がアーティストとして歌い続ける以上、母をテーマにした歌を作りたい」と強い決意を抱いた。

 「メロディーはすぐ降りてきた」。しかし歌詞がなかなか浮かんで来なかった。母親への愛慕が流れ続ける間、川面の泡のように浮かんでは消え、消えては浮かぶ感覚の中で、言葉が形を成したのは、メロディーが生まれてから4年後だった。数多い思い出のなか、母親が口にしていた「今度生まれて来る時はパーマ屋になりたい」という言葉をそのまま盛り込んだ。

  この楽曲は、池田さんが母親に寄せる愛情表現が純粋な形で描かれ、情感豊かなバラードとして昇華されている。

 小学5年の時、誕生祝いに父親が買ってくれたギターを手にして以降、音楽に夢中になった。プレゼントは予定ではギア付き自転車(3万6千円)だった。親子で自転車店に向かう途中、時計店のケースに陳列されていたギターが目に留まり、真作さんは思わず「ギターのほうがいい」と口にしていた。父親は息子の突然の変更を咎めることもなく、フォークギターを購入してくれた。定価は1万6千円だったという。

  池田さんは中学3年の時、日出克と出会い、高校2年の時に音楽仲間を加えた3人で「やもり」バンドを結成。卒業後に上京、プロを目指して6年ほど音楽活動をした。しかし体調を崩し1998年に石垣島に帰郷。その後、オリジナル曲づくりに注力するようになった。2006年にはスタジオnanを自宅横に設置、同年「月うた星うた」、09年に「Messenger」、17年には「BestSelection」のアルバム3枚をリリースしている。

 




Words and Music by

池田真作/いけだしんさく
1966年、石垣島生まれ。ウィングキッズリーダーズ「オヤケアカハチ~太陽の乱~」の各公演でバンドマスター・ボーカル&ギターを務める。2013年から舞台曲として「結ぬ島風」を楽曲提供。石垣市内のホテルでのライブ、大阪や京都などで幅広くライブ活動を展開中。03年には八重山古典民謡コンクールで優秀賞を受賞している。


PROFILE

島尻修 編劇

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  • #16 幸せ

    #16 幸せ

    この歌は2005年、沖縄市で開催された第7回コザ音楽祭(主催・沖縄ロック協会)に、4人編成のバンド「チョコプレ」で出場し、見事グランプリに輝いた受賞曲である。

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  • #15 軽トラックかりて

    #15 軽トラックかりて

     小浜島のシュガーロード。両側にサトウキビ畑が広がるまっすぐに伸びた坂道で、この道を走行する軽トラックが2003年に発表された楽曲『軽トラックかりて』の源泉になっている。 ある時「ポっという感じだった」と、曲が産声を上げた瞬間を振り返る。歩きながらハミングするような、自然の流れで生まれたという。

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  • #12 HELLO MAMA

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    4年前の春まだ浅き頃、池田さんの母・信子さんはがんのため78歳で亡くなった。池田さんは「自分がアーティストとして歌い続ける以上、母をテーマにした歌を作りたい」と強い決意を抱いた。「メロディーはすぐ降りてきた」。しかし歌詞がなかなか浮かんで来なかった。母親への愛慕が流れ続ける間、川面の泡のように浮かんでは消え、消えては浮かぶ感覚の中で、言葉が形を成したのは、メロディーが生まれてから4年後だった。数多い思い出のなか、母親が口にしていた「今度生まれて来る時はパーマ屋になりたい」という言葉をそのまま盛り込んだ。

  • #11 星になったこどもたち

    #11 成為明星的孩子

    在波照間島的中心,俯瞰西表島的小山丘上,矗立著「學童紀念碑」。這座紀念碑是為了慰藉太平洋戰爭結束後被強制疏散到西表島南狹見並因瘧疾而喪生的66名波照間小學學生的靈魂而建造的(1984年為紀念建島90週年而建)。

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