歌が生まれる時
#15 軽トラックかりて
小浜島のシュガーロード。両側にサトウキビ畑が広がるまっすぐに伸びた坂道で、この道を走行する軽トラックが2003年に発表された楽曲『軽トラックかりて』の源泉になっている。 ある時「ポっという感じだった」と、曲が産声を上げた瞬間を振り返る。歩きながらハミングするような、自然の流れで生まれたという。
#15 軽トラックかりて
小浜島のシュガーロード。両側にサトウキビ畑が広がるまっすぐに伸びた坂道で、この道を走行する軽トラックが2003年に発表された楽曲『軽トラックかりて』の源泉になっている。 ある時「ポっという感じだった」と、曲が産声を上げた瞬間を振り返る。歩きながらハミングするような、自然の流れで生まれたという。
#12 HELLO MAMA
4年前の春まだ浅き頃、池田さんの母・信子さんはがんのため78歳で亡くなった。池田さんは「自分がアーティストとして歌い続ける以上、母をテーマにした歌を作りたい」と強い決意を抱いた。「メロディーはすぐ降りてきた」。しかし歌詞がなかなか浮かんで来なかった。母親への愛慕が流れ続ける間、川面の泡のように浮かんでは消え、消えては浮かぶ感覚の中で、言葉が形を成したのは、メロディーが生まれてから4年後だった。数多い思い出のなか、母親が口にしていた「今度生まれて来る時はパーマ屋になりたい」という言葉をそのまま盛り込んだ。
#12 HELLO MAMA
4年前の春まだ浅き頃、池田さんの母・信子さんはがんのため78歳で亡くなった。池田さんは「自分がアーティストとして歌い続ける以上、母をテーマにした歌を作りたい」と強い決意を抱いた。「メロディーはすぐ降りてきた」。しかし歌詞がなかなか浮かんで来なかった。母親への愛慕が流れ続ける間、川面の泡のように浮かんでは消え、消えては浮かぶ感覚の中で、言葉が形を成したのは、メロディーが生まれてから4年後だった。数多い思い出のなか、母親が口にしていた「今度生まれて来る時はパーマ屋になりたい」という言葉をそのまま盛り込んだ。
#11 星になったこどもたち
波照間島の中心部、西表島を望む小高い丘に「学童慰霊碑」が建っている。この碑は太平洋戦争末期、西表島南風見へ強制疎開させられ、マラリアで命を落とした波照間小の児童66人の霊を慰めるために建立された(1984年の創立90周年事業)。
#11 星になったこどもたち
波照間島の中心部、西表島を望む小高い丘に「学童慰霊碑」が建っている。この碑は太平洋戦争末期、西表島南風見へ強制疎開させられ、マラリアで命を落とした波照間小の児童66人の霊を慰めるために建立された(1984年の創立90周年事業)。
#10 覚えたての夜
石垣島におけるフォークシンガーの先駆け的存在、池原興一さんの代表曲である。夕暮れから夜にかけて動き出す頃、なじみの店へ向かう道すがら、今宵のドラマを想像しながら、いつも脳裏で口ずさんでいた。2023年に他界した興一さんに、生前、誕生年を尋ねたことがある。「30代の頃」と、寡黙に答えてくれた。
#10 覚えたての夜
石垣島におけるフォークシンガーの先駆け的存在、池原興一さんの代表曲である。夕暮れから夜にかけて動き出す頃、なじみの店へ向かう道すがら、今宵のドラマを想像しながら、いつも脳裏で口ずさんでいた。2023年に他界した興一さんに、生前、誕生年を尋ねたことがある。「30代の頃」と、寡黙に答えてくれた。
#9 六月の祈り ~ウムイ~
沖縄県では6月23日を「慰霊の日」と定め、この月間、県内の各学校では独自に平和学習が行われている。「六月の祈り~ウムイ~」は、平和学習にちなんで生まれた。16年前、浦崎さんは黒島小中校で勤務していた。職員の祖母が、ひめゆり学徒隊の生き残りであったことから、平和学習で戦争体験の講話をお願いすることになった。教頭職の浦崎さんは、それに向けての曲作りを学校長から提案された。
#9 六月の祈り ~ウムイ~
沖縄県では6月23日を「慰霊の日」と定め、この月間、県内の各学校では独自に平和学習が行われている。「六月の祈り~ウムイ~」は、平和学習にちなんで生まれた。16年前、浦崎さんは黒島小中校で勤務していた。職員の祖母が、ひめゆり学徒隊の生き残りであったことから、平和学習で戦争体験の講話をお願いすることになった。教頭職の浦崎さんは、それに向けての曲作りを学校長から提案された。