歌が生まれる時

#9 六月の祈り ~ウムイ~

#ウムイ  #六月の祈り  #歌が生まれる時  #浦崎喬  #鳩間島  #黒島  text: osamu shimajiri 
#9 六月の祈り ~ウムイ~

 沖縄県では6月23日を「慰霊の日」と定め、この月間、県内の各学校では独自に平和学習が行われている。「六月の祈り~ウムイ~」は、平和学習にちなんで生まれた。

 16年前、浦崎さんは黒島小中校で勤務していた。職員の祖母が、ひめゆり学徒隊の生き残りであったことから、平和学習で戦争体験の講話をお願いすることになった。教頭職の浦崎さんは、それに向けての曲作りを学校長から提案された。 

 「突然の話だったが、出来上がるまで時間はそうかからなかった」と浦崎さん。詞とメロディーが同時に浮かんで来たそうだ。

 その後、この曲は異動先の学校でも歌うようになる。沖縄戦末期、アメリカ軍の攻撃にさらされながら逃げ惑う母と幼い娘の姿を詩にして、朗読も取り入れた。学校現場では3人編成(歌&ギター、キーボード、三線など)のバンドで歌い、沖縄戦の映像を流しながら、平和の尊さを子どもたちに伝えている。

 浦崎家は、祖父、父親が鳩間島の祭事で三線や笛などの地謡を務めた。兄の宜浩さんは、沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡保持者、二人の姉は、コーラスグループまみーずのメンバー(川平孝子さんと池田哲子さん)という音楽一家。喬さんは中学の頃からギターを手にし、大学時代はフォークソングクラブの部長。20代の頃から曲づくりを始め、NHKFMヤングフェスティバル(1982年)や、ヤマハポプコン(83年)、NHK沖縄「あたらしい沖縄のうた」などで入賞(86年)した他、学校応援歌、合唱コンクール用、部活、卒業ソングなど学校現場にちなむ楽曲なども多い。 


Words and Music by

浦崎喬/うらさきたかし
1960年生まれ。石垣市出身。元教員。2021年、大浜小学校(校長)で定年退職。現在は音楽仲間とのバンドで鳩間島音楽祭への出演他、市内のライブハウスの音楽イベントなどに出演している。

PROFILE

島尻修 編劇

返回網誌
  • #11 星になったこどもたち

    #11 星になったこどもたち

    波照間島の中心部、西表島を望む小高い丘に「学童慰霊碑」が建っている。この碑は太平洋戦争末期、西表島南風見へ強制疎開させられ、マラリアで命を落とした波照間小の児童66人の霊を慰めるために建立された(1984年の創立90周年事業)。

    #11 星になったこどもたち

    波照間島の中心部、西表島を望む小高い丘に「学童慰霊碑」が建っている。この碑は太平洋戦争末期、西表島南風見へ強制疎開させられ、マラリアで命を落とした波照間小の児童66人の霊を慰めるために建立された(1984年の創立90周年事業)。

  • #10 覚えたての夜

    #10 覚えたての夜

    石垣島におけるフォークシンガーの先駆け的存在、池原興一さんの代表曲である。夕暮れから夜にかけて動き出す頃、なじみの店へ向かう道すがら、今宵のドラマを想像しながら、いつも脳裏で口ずさんでいた。2023年に他界した興一さんに、生前、誕生年を尋ねたことがある。「30代の頃」と、寡黙に答えてくれた。

    #10 覚えたての夜

    石垣島におけるフォークシンガーの先駆け的存在、池原興一さんの代表曲である。夕暮れから夜にかけて動き出す頃、なじみの店へ向かう道すがら、今宵のドラマを想像しながら、いつも脳裏で口ずさんでいた。2023年に他界した興一さんに、生前、誕生年を尋ねたことがある。「30代の頃」と、寡黙に答えてくれた。

  • #9 六月の祈り ~ウムイ~

    #9 六月の祈り ~ウムイ~

    沖縄県では6月23日を「慰霊の日」と定め、この月間、県内の各学校では独自に平和学習が行われている。「六月の祈り~ウムイ~」は、平和学習にちなんで生まれた。16年前、浦崎さんは黒島小中校で勤務していた。職員の祖母が、ひめゆり学徒隊の生き残りであったことから、平和学習で戦争体験の講話をお願いすることになった。教頭職の浦崎さんは、それに向けての曲作りを学校長から提案された。 

    #9 六月の祈り ~ウムイ~

    沖縄県では6月23日を「慰霊の日」と定め、この月間、県内の各学校では独自に平和学習が行われている。「六月の祈り~ウムイ~」は、平和学習にちなんで生まれた。16年前、浦崎さんは黒島小中校で勤務していた。職員の祖母が、ひめゆり学徒隊の生き残りであったことから、平和学習で戦争体験の講話をお願いすることになった。教頭職の浦崎さんは、それに向けての曲作りを学校長から提案された。 

  • #3 さしみ屋

    #3 生魚片店

    當來自其他縣的移民開始在石垣島生活時,他們常常感到驚訝。 「生魚宮」就是其中之一。大陸的魚店在島上被稱為鮮魚店或刺身店,當地人親切地稱之為「刺身屋」。據信這裡有30多家商店,其中大部分是由漁民的家庭或親戚經營的。

    #3 生魚片店

    當來自其他縣的移民開始在石垣島生活時,他們常常感到驚訝。 「生魚宮」就是其中之一。大陸的魚店在島上被稱為鮮魚店或刺身店,當地人親切地稱之為「刺身屋」。據信這裡有30多家商店,其中大部分是由漁民的家庭或親戚經營的。

1 / 4