歌が生まれる時

#1 カニさん

#カニさん  #仲嶺正哉  #佐渡山豊  #宮良力二  #島尻修  #歌が生まれる時  text: osamu shimajiri
#1 カニさん

 1979年、東京阿佐ヶ谷。石垣島出身の大学生、仲嶺正哉さん(1957年生)のアパートに高校の同級生4人が遊びに来た。

 外で飲もうということになり、駅前の居酒屋「じょんがら」に移動した。

  カウンターに座る彼らが話す「なまり」に、同店で働く宮良力二(かつじ)さん(1956年生)は心を奪われた。西表島出身の宮良さんは高校卒業後上京し、店のオーナーが経営する「割烹」と「じょんがら」で調理人を目指して修業中だった。

  その頃、周りに沖縄県民がいなかった宮良さんは、久しぶりに聞く島の言葉に郷愁の思いが湧き出てきて、思わず声をかけたという。

  仲嶺さんは当時を振り返る。

 「居酒屋の帰り、仕事を終えた宮良さんから誘われ、彼のアパートで酒を飲み交わしました。高架橋下にあった四畳半のアパートでした。ラジカセから、佐渡山豊の『沖縄は混血児(あいのこ)』『海どろぼう』などが流れていました。

 そんな中、僕が突然宮良さんに向かって、宮良さんの歌をつくると宣言したんです」

  その後、帰郷した2人は、仲嶺さんが八重山高校で高校教師として勤務、宮良さんは市内の大手リゾートホテルなどに勤め、料理長も務めた。

 宮良さんは、40年以上も前につくられた自身がモデルの『カニ(かに)さん』に対し、「ぼくの知らないところで一人歩きしていた。わが子の成長を見る思い」と話している。

 ♪いつまでも俺たちはナイチャーにはなれない いつまでも俺たちは ウチナンチューなんだね♪  そのフレーズが胸に沁みる。

 

 

 


SONG INFO

「カニさん」
1979年 作詞・作曲/仲嶺正哉

 


Words and Music by

仲嶺正哉/なかみねまさや
石垣市出身。元高校教師。市内のライブハウス「CITY JACK」で石垣博公氏と「まー先生の金曜ライブ」を400回開く。現在はマイペースで音楽活動を続け、これまで自主制作のCDアルバム、ミニアルバム、シングル合わせ3枚発表。

PROFILE

文/島尻修

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    他府県などからの移住者が石垣島で生活を始めると、驚かされることが多い。「さしみ屋」も、その一つ。本土での魚屋は、島では鮮魚店、さしみ店と呼ばれ、地元の人は親しみを込めて「さしみ屋」と呼ぶ。店は漁師の家族や親族によって営業しているものが大半で、30軒以上あるとみられる。

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  • #2 晴々/はればれ

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     2014年、饒平名久乃さんの人生の羅針盤が大きく動いた。この年の4月、父親が大動脈破裂で急逝。久乃さんは20歳で歌手を目指して上京し音楽活動をしていたが、家業のクリーニング店を引き継ぐと決め、13年ほど住んだ東京を離れた。

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